平河橋の上から見た風景
明治初期に平河橋の上から撮影された写真があります。この写真の右手には一ツ橋門の渡櫓門が写り、左手には番所が写っています。そこは現在どうなっているでしょうか?
橋の正面には大きなビルが建ち、その横には現在の一ツ橋から続く広い道路があります。門も番所も見当たりません。ですから、このあたりも江戸城の一部分であったことは、現在ではわかりにくいでしょう。
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平河橋の上から見た一ツ橋門跡
わずかに残る一ツ橋門の石垣
それでは門の遺構は一切残っていないのでしょうか?
微妙ですが残っているものがあります。現在の一ツ橋のすぐ脇に、なにやらコンクリートで補強された小さな石垣があります。これが一ツ橋門の遺構です。
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一ツ橋門の遺構が遠くに見える -
一ツ橋門の遺構を近くから見る -
石垣の遺構 -
石垣の遺構を反対側から見る
濠の石垣
この微妙な石垣をもっと良く確認するために、橋の上から見てみます。すると、それは単体でポツンとあるのではなく、現在の日本橋川に沿って残っている江戸期の石垣(に見える)と一体になっていることがわかります。ですから、これは川沿いに残る石垣の一部と見ることもできるでしょう。門とつながっていた部分かもしれませんが、それが門のどの部分なのか、はっきりとはわかりません。
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現在の日本橋川・一ツ橋付近に残る江戸期の石垣 -
日本橋川・一ツ橋付近に残る江戸期の石垣 -
江戸期の石垣には高速道路の橋脚が刺さっている
現在の一ツ橋
江戸時代の木橋はもちろん残っていませんが、現在は車でとおることのできる幅広で丈夫な鉄筋コンクリート製のものがかけられています。
場所は若干ずれているようですが、もとの木橋の近くに今でも一ツ橋はあります。橋をよく見ると、これは大正14年の11月に竣工されたものだということがわかります。
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現在の一ツ橋 -
現在の一ツ橋は「大正14年11月竣功」
一ツ橋徳川家の屋敷跡
一ツ橋門内には一橋家(一橋徳川家)の屋敷がありました。御三卿の一つである一橋家は、八代将軍吉宗(1684~1751)の四男宗尹(1721~1764)が1741(寛保元)年に、この門内に屋敷を与えられて家を興したことが始まりだと伝わっています。屋敷は一ツ橋とその隣にある神田橋の間の広い土地に存在していました。現在の一ツ橋と門の遺構の石垣近くには、それを伝える記念碑があります。
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一ツ橋徳川家の屋敷跡の一角 -
一ツ橋徳川家の屋敷跡を伝える記念碑