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 「虎ノ門」は現在でも東京の地名や駅名として生きており、高層ビルが立ち並ぶオフィス街を想像する人もいるかもしれません。虎ノ門ヒルズがある場所としても知られています。ですが、それはもともと江戸城の城門のひとつでした。門は外堀通りの虎ノ門交差点近く、そこからもう少し北のほうにあったようです。住所で言うと虎ノ門よりも北で、ちょうど霞が関に入るあたりです。
 濠にかかる橋は土橋で、橋を渡り高麗門をくぐって枡形内に入り、左に90度曲がれば渡櫓門があるという構造だったようです。1731(享保16)年、大火によって焼失し、すぐに高麗門、戸張番所、 枡形石垣の塀は復元しましたが、渡櫓だけは復元されなかったと伝わっています。 明治初期に撮影された写真を見ても、確かに渡櫓と思われるものは写っていません。明治時代に江戸城の門の多くは破壊されていますが、虎ノ門の場合、渡櫓門の石垣だけは1934(昭和9)年まで残っていたといいます。ですが現在ではそれもなくなり、虎ノ門という名前が地名・駅名として残っているのみです。
 虎ノ門の周辺は濠も埋められてしまったため、どこに何があったのかわかりにくいですが、かつて虎ノ門があった場所から西のほう、江戸時代の虎ノ門と溜池の間にあった石垣の遺構の一部が、 文部科学省の建て替え工事によって出土し、展示されているため見ることができます。

 写真を撮るために遺構を見に行った際、石垣の遺構は全部で4ヵ所確認できました。溜池山王駅のほうから虎ノ門跡に向かって歩き、順番に見て行きます。
 JR新橋駅から地下鉄の溜池山王駅へ向かって外堀通りを歩き、虎ノ門の交差点を過ぎたあたりで、左手に「国史跡 江戸城外堀跡 溜池櫓台」という案内板が見えてきます。ここが櫓台石垣のある場所のようですが、うっそうと茂る緑の中に石碑が埋もれているだけで、石垣らしき物は見当たりません。近くに何かあるはずだと思って裏側へまわってみると、案の定、石垣の遺構がありました。上から二段くらいしか見えていませんが、きれいに隙間なく積まれています。側面を見ると少し崩れていますが、あきらかに人工的に加工された石垣の石です。色は少し緑色になっていました。

  • 江戸城外堀の最西南端にあった溜池櫓台の隅石を近くから見る。
    外堀最西南端にあった溜池櫓台の隅石
  • 江戸城外堀の最西南端にあった溜池櫓台の隅石を別の角度から見る。
    溜池櫓台の側面2
  • 江戸城外堀の最西南端にあった溜池櫓台の隅石をまた別の角度から見る
    溜池櫓台の側面3
  • 江戸城外堀の最西南端にあった溜池櫓台の隅石を少し離れて見る。
    溜池櫓台を少し離れて見る

 次に旧教育会館前の石垣を見にいきます。溜池櫓台からかつての虎ノ門の方へ向かって歩き、外堀通りで信号を渡った先に、なにやら石垣のようなものが見えてきます。積み石には矢穴のギザギザした痕も見られ、隙間が多くあるので石が詰められています。 間近で見ているから余計に粗さが目立ちます。現存している外堀や内堀の石垣は遠くから眺めるので、大体きれいに見えるのだと思います。
 この石垣の上には植物が乗っていますが、これはもちろん展示のための演出でしょう。歴史的遺構をジャマな物として撤去するのではなく、うまく展示して残してもらえるのは有り難いことだと思います。

  • 旧教育会館前に展示されている石垣。
    石垣の全体像1
  • 旧教育会館前に展示されている石垣を別の角度から。
    石垣の全体像2
  • 旧教育会館前に展示されている石垣を近くから見る。
    接写した石垣1
  • 旧教育会館前に展示されている石垣の別の部分を近くから見る。
    接写した石垣2

 旧教育会館前からかつての虎ノ門の方へ向かって少し歩くと、また石垣が見えてきます。場所は地下鉄の虎ノ門駅11番出口のあたりです。パッと見た印象は先ほどの石垣とあまり変わらずゴツゴツとした印象で、隙間には石が詰められています。
 ここの石垣の最大の特長は、矢筈(やはず)の形の刻印が刻まれている積み石が多くあることです。これは豊後国佐伯藩毛利家のもので、この家の家紋が丸に矢筈です。この区域の担当は、明確な境界線はよくわかりませんが、向かって左側が豊後国佐伯藩毛利高直で、 右側が備中国庭瀬藩戸川正安だということです。それで矢筈の刻印が刻まれているのでしょう。
 毛利氏といえば、「三矢の教訓」の逸話で有名な元就を想像する人が多いかもしれませんが、元就の家は周防国山口藩毛利家のルーツでその家紋は「長門三つ星」、佐伯藩毛利家は「丸に矢筈」だから家紋からして違います。この佐伯藩毛利家は、実は元就の毛利氏とは別系統で、本姓は森氏だったといいます。佐伯藩毛利家の初代となる高政は1559(永禄2)年に生まれ、豊臣秀吉の家臣でしたが、 1581(天正10)年5月に秀吉の備中国高松城攻めに従軍し、毛利輝元との和議の際、 毛利方の人質として弟の吉安と共に預けられたことが縁で、毛利姓を名乗るようになったといいます。 その毛利高政の孫にあたるのが、この石垣を担当した高直です。

  • 地下鉄の虎ノ門駅11番出口付近に残る石垣の全体像1
    石垣の全体像1
  • 地下鉄の虎ノ門駅11番出口付近に残る石垣の全体像2
    石垣の全体像2
  • 接写した石垣1
    接写した石垣1
  • 接写した石垣2
    接写した石垣2
  • 石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印1
    石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印1
  • 石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印2
    石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印2
  • 石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印3
    石垣に刻まれた佐伯藩毛利家の刻印3

 虎ノ門駅11番出口の石垣からさらにかつての虎ノ門の方へ向かって歩くと、文部科学省構内ラウンジ前に石垣があります。この石垣は地面よりも低い位地にあるため、階段で下に降りて見学できるようになっています。石垣の前のかべには、江戸城やその石垣のことについての説明が書かれたパネルがあって、このあたりの1636(寛永13)年の外堀石垣構築や石垣の刻印についても説明があり、 意味がわかると石垣の遺構の見学がよりおもしろくなります。
 石垣は同じく隙間の多い積み方で、隙間には石が詰められています。積み石の表面を見ると、わかりにくいですがすじ状の模様があるようにも見えます。 はつり仕上げがなされていたのでしょうか。劣化、風化によってわかりにくくなっていますが、人工的に加工された跡にも見えます。刻印も探してみましたが、有りそうで無く、見えそうで見えず、ちゃんと見たらあるのかもしれませんが、結局よくわかりませんでした。

  • 上から見た石垣展示場の全体像
    上から見た石垣展示場の全体像
  • 下に降りて見た石垣の全体像1
    下に降りて見た石垣の全体像1
  • 下に降りて見た石垣の全体像2
    下に降りて見た石垣の全体像2
  • やや接写した石垣
    やや接写した石垣
  • 刻印のように見えるもの
    刻印か?
  • 接写した石垣1
    接写した石垣1
  • 接写した石垣2
    接写した石垣2