Terukazu.jp

日本語 / English

 高麗門や渡櫓門は残っていませんが、石垣の一部が残っています。各線の飯田橋駅から近いこともあって、人どおりは多い場所です。もちろん車もとおります。現在の鉄筋コンクリート製の牛込橋を渡った先が牛込門でしたが、そうだと説明されなければわからないかもしれません。外堀の門のひとつで、門跡から東側はかつての江戸城の郭内です。

  • 牛込橋の上から見た牛込門跡。
    牛込橋と牛込門跡
  • 牛込橋の上から見た渡櫓門の袖石垣。
    牛込門跡に残る渡櫓門の石垣
  • 旧牛込門枡形内の現状は歩道や車道になっています。
    牛込門があった場所の現状

  • 牛込門の高麗門跡に向かって左側、枡形の石垣。
    牛込門枡形の石垣。修復されたあとで、白っぽい石が混じる。
  • 牛込門の高麗門跡に向かって左側、枡形の石垣のもう少し下のほう。
    牛込門枡形の石垣の下のほう。

  • 牛込橋の上から見た渡櫓門の袖石垣。線路側の側面。
    渡櫓門の石垣。線路側の側面。
  • 渡櫓門の袖石垣の下のほうを、牛込橋の上から覗き込む。
    渡櫓門の石垣の下のほう。見えにくい部分を牛込橋の上から覗き込む。
  • 片側だけ現存する渡櫓門の袖石垣。
    かつての枡形内から見た渡櫓門の石垣
  • 渡櫓門の袖石垣。立派な隅石を真近で見る。
    渡櫓門の石垣の立派な隅石(すみいし)
  • 牛込門枡形の外側から見た、渡櫓門の袖石垣。
    かつての枡形の外から見た渡櫓門の石垣

 牛込門跡には文字の刻まれた石がひっそりと置かれています。この石には「入阿波守内」と彫られています。牛込門は1636(寛永13)年に外郭諸門の修築が行われた際、阿波国(あわのくに)徳島城主の蜂須賀(はちすか)阿波守(あわのかみ)忠英(ただてる)(1611~1652)によって築かれたと考えられていますので、それを意味しているのかもしれません。1902(明治35)年に撤去、解体中に偶然発見されたというので、江戸時代にはこれを目にすることはなかったようです。
 この石は置かれているというよりも、展示しているつもりなのかもしれません。でもそんなの説明がなければわからないと思います。私がこの石の写真を撮っていたとき、ちょうど若い女の子が近くをとおり、その光景が異様に見えたらしく、「写真とってるぅ~!」と言われました。そこに何があるのかがわからないので、何をしているのかも、よくわからなかったのだと思います。

  • 牛込門跡に置かれている築石には「入阿波守内」と刻まれている。
    「入阿波守内」と刻まれた築石